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戦国時代、諏訪氏の居館があった板垣平

少し前に上原城について書きました。 

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戦国時代に武田に滅ぼされるまで、諏訪氏の居城だった山城です。この上原城への登城道の途中、居館跡を示す大きな石碑があります。

 板垣平

上原城は金比羅山に位置しますが、その中腹には諏訪氏の居館跡があります。現在はそれを示す大きな石碑が建てられています。

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武田氏の諏訪信仰後は、武田氏の重臣板垣信方らがここを居館とし、諏訪郡代を務めていたことから「板垣平」と呼ばれています。板垣平はこれまでの発掘調査で上下の地層に違いがあり、諏訪惣領家時代に焼失したその場所に武田時代の居館が建てられたこと考えられています。 この際建てられた居館はその後の武田氏による諏訪、信濃統治の拠点となりました。

板垣信方って誰?

諏訪家の居城跡なのに「板垣平」と呼ばれるくらいですから、この板垣信方がすごい人物、人格者だったことが想像できます。

板垣 信方(いたがき のぶかた)は武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕え、武田二十四将、武田四天王の一人に数えられています。
武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと、甘利虎泰(あまり とらやす)と共に最高職位「両職」として家臣団の筆頭格となりました。諏訪家滅亡後は諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪統治を任せられます。武田家の信濃侵攻においては諏訪衆を率いて数々の戦功をあげています。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破りますが、逆襲を受けて討死しています。

大河ドラマ「風林火山」の千葉真一のややクドイと感じるほどの熱演が記憶に残っています。特に信方の戦死シーンは、刀で切られても、槍で刺されても、矢で打たれてもなかなか倒れず、「これ、本当に絶命するのか?」と全国の大河ファンが変な心配をしたことでしょう。

板垣と言えば、自由民権運動の板垣退助ですが

板垣何某と言えば、まず思いつくのは自由民権運動で活躍した板垣退助です。「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったか、言わなかったかがよく話題になりますが、史実に照らした時に疑わしいエピソードの多い人です。

そんな彼の怪しいエピソードの一つに彼の名前についての話があります。元々、彼は乾(いぬい)性を名乗っていましたが、戊辰戦争の際に板垣姓に代えているのです。

乾家の初代・正信は、板垣信方の孫であり、正信の父・板垣信憲がゆえあって改易された後に誅された事件があった為、籠居して乾氏に名を改めました。その後、正信は小田原征伐での功によって山内一豊に召抱えられたとされています。

板垣退助は戊辰戦争の際には東山道先鋒総督府の参謀として従軍していますが、天領である甲府城を攻めた慶応4年が祖先とされる板垣信方の没後320年にあたるため、旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得ようと板垣氏に姓を代えました。

武田家滅亡後、家康は武田家家臣を多く召し抱えていましたが、天領に住まうこれらの子孫らを懐柔するのにも絶大な効果があったらしい。

ちなみに

板垣信方と共に最高職位「両職」を務めた甘利虎泰の子孫も政治家として活躍しています。

最近、センテンススプリングこと週刊文春に疑惑を報道されている甘利 明(あまり あきら)経済再生相はこの甘利虎泰の子孫だということです。

 

 

ん~ どうしてこんなに武田家が人気なんだろう。前にもどこかで書いたけど、諏訪って武田に滅ぼされているのになぁ。分からん。

江戸時代は宿場町だったわけだし、信玄人気にあやかろうっていう経済的な話からかな。そうだとすればたくましい限りだし、利にさとい諏訪人らしいかもしれない。

 

では、また。

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