ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

上川河川敷の桜と水仙

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お題「お花見」

春の遅い諏訪でも先週あたりから桜が咲き始め、今ちょうど満開を迎えています。先週まで地元は御柱祭で大忙しだったので、今日明日あたりがお花見のピークになるのだろうと思います。

今日はそんなシーズンのずれている諏訪のお花見スポットの紹介です。紹介したいところは数か所あるのですが、とりあえず一つだけエピソードつきで書きます。

赤沼の桜並木

諏訪市の四賀赤沼にある桜並木。諏訪湖へそそぐ上川の上流の土手に地元民によって植えられたものです。

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並木のすぐ下の上川河川敷には地元住人によって、たくさんの水仙が植えられており、春にはこのように薄紅色の桜と黄色い水仙が同時に咲き競います。この見事な風景から花の名所として多くの諏訪人から愛されていますし、直ぐ近くにはマレットゴルフ場もあり、地区の憩いの場としても親しまれています。

諏訪エリアにも桜の名所と言われる場所は数多くありますが、私はこの風景が一番好きです。

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のどかなもんでしょ。

仕事の合間によってきたのですが、なんだか、ず~っとここでのんびりとしていたい気分でした。

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土手の上は道路になっていて、この時期は用事もないのにわざわざこの道路を使うことがしばしばあります。桜のトンネルをドライブするのはとても気持ちが良いです。

赤沼桜並木誕生秘話

さて、この桜並木、いつからあるものなのでしょうか。

この並木は明治42年(1909年)に植えられたものです。

この直前、明治37~38年(1904~5年)にあった日露戦争では多くの兵士が従軍しました。その数は約30万人。そして、多くの兵士が傷つき、戦没者は88,429人、うち戦死戦傷死は55,655人にものぼりました。

この戦争で地元赤沼からも兵士として若者が従軍しましたが、なんと、その全員が無事に帰還できたのです。そして、そのことを記念して植えられたのがこの桜並木なのです。

この看板には並木のいわれが記されています。

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記念桜樹栽植之記

指を折りかえりみれば、明治三十七、八年の日本とロシヤの争は、有史以来の対戦であって、災から以前の平和に戻る迄月をあらためみると、二十有余月であった。幸に日本軍が行く先々は、なびかない所はなく、戦へば勝ち攻めれば取り、敵を撃ち追い払い追いつめ遂に、いにしえをむなしくする無敵の大勝を得て、国威を内外にあげあらはすと同時に、日本が世界の一等国の仲間入となった。これは皆天皇陛下の御威光であるとはいえ、私達軍人が、のこりおしいことなく技術を発揮した事である。又我々五千万同朋が特別な気概である大和魂を持っているからである。

日本の大和心を人が聞いたならば 旭に匂ふ山桜の花のようである ああこれこそが大和魂の本領を表はし示すと共に櫻花がすべての花の王として、大勢の人の鑑賞を一人じめにするわけである。広く世人の話題にのぼって称されるあぢはいにて於いて大和魂の神仏の化身たる日本武士の魂によくにたるものである。そこで赤沼軍人が相談して、此の誉ある戦勝の記念を永遠に残すべく植樹事業をするに当り桜を選んだのも、其の意味である。概略をつらねならべて、桜樹の栽植の記述とする。

明治四十二年三月

赤沼在郷軍人

 無事帰還出来たことへの安堵よりも、日露戦争勝利の興奮が感じられる。この辺りは時代の違いなのだろう。だが、その記念をこうして桜樹にするあたりは日本人の精神性はあまり変わらないのかもしれない。栽植之記にあるとおり、まさに大和心・大和魂なのだろう。

 

こんなおめでたい謂れのある桜並木であれば、見ていて気持ちが良いわけです。

でも、地元でもこのエピソードを知っている人、案外少ないんですよね。綺麗な桜並木を守りつつ、先人らの思いも後世へ繋いでいきたいものです。

では、また。