ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

高島城を築いた築城の名人・日根野織部正高吉の供養塔

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私の住む諏訪は神話の時代、諏訪明神がやって来たときから明治に至るまで諏訪氏によって治められてきました。諏訪氏の名前が先か、諏訪という地名が先かは私には良くわからないが、とにかく、諏訪にとって諏訪氏とは切っても切れない存在です。

しかし、この諏訪氏が一時だけ諏訪を離れたことがあります。それは諏訪のシンボルの一つ、江戸時代に諏訪氏の居城でもあった高島城が築城された時代、戦国の末期から安土桃山のころのことです。

今日は諏訪氏が諏訪を離れていた時代に、高島城を築いた日根野高良とその供養塔について。

築城の名人・日根野織部正高吉

日根野織部正高吉(ひねのおりべのしょうたかよし)は和泉国(大阪府)の出身で、信長・秀吉に仕え、小田原役の軍功によって天正18年(1590)諏訪郡を与えられた武将です。彼は安土・大阪などの築城の手腕家で、諏訪に来ては今の高島城の地を見立てて、水を守りとした名城を築きました。高島城が戦国時代から今の場所にあったと思っている人も多いようですが、諏訪湖に浮かんでいるように見えた浮城・高島城はこの日根野高良によって築かれたものです。

関ヶ原の戦い直前、慶長5年(1600)6月病んで城内に没し、慈雲寺に葬られています。

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こちらが慈雲寺です。諏訪大社下社近くにあります。

供養塔

その後日根野家は壬生(栃木県)1万2千石に左遷されたが、大坂夏の陣の戦功によって2万石に移された。そして高良の五十回忌にあたる慶安二年(1649)に慈雲寺にこの五輪の供養塔を建てた。髙さが3メートルあり、諏訪地方では最も大きい五輪塔で、その様式も諏訪では他に見られない。九州の石工が来たか、図案をよこしたかのいずれかであろうと言われている。

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こちらが供養塔。
塔の前には宝暦6年(1755)に大分藩主日根野和泉守高豊の供えた石の香炉があります。また、寺には「私一代のうちは年々玄米一俵を茶湯料として寄進する」と文久2年(1862)に大分藩主日根野高常によって書かれた文が残っています。

 

諏訪の人も意外と知らない諏訪の恩人・日根野高良。諏訪の街の基礎を作ってくれた彼に感謝しつつ、この項を終わりにします。