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ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

【吉良義周の墓】赤穂浪士の吉良邸討ち入りでの最大の被害者

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12月14日は忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日です。正確には15日未明らしいですが、夜が明けてから新しい1日が始まるということで、14日の晩に討ち入りがあったと言われているそうです。もっとも、これも旧暦での話なので、実際は今の1月30日(31日未明)の話らしいです。

さて、その忠臣蔵ですが、私、どうもあまり好きになれない。なんか、吉良さんらが気の毒で。今で言えば、ある種のテロともいえる行為なわけで、忠臣などと刺客らが持て囃されるのは、何か、チョッと違う気がするのです。

今日はそんな気の毒な吉良方の中でも、ある意味、吉良上野介よりも悲惨な目にあった吉良義周(よしちか)公についてです。

吉良義周とは

上杉綱憲(吉良上野介の長男)の第二子として生まれ、5歳の時に吉良家の跡取りとして祖父である上野介の養子となりました。名門の生まれというだけでなく、優れた才能の持ち主だったそうで、将来を大変期待されていたそうです。

しかし、吉良家を継いだ彼を突然悲劇が襲います。元禄事件です。

吉良家を継いだ翌年、元禄15年の12月14日未明、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討ち入りに遭遇し、自身も手傷を負います。翌年、評定所に呼び出され、大目付により「仕方不届」として領地召し上げを申し渡されたのです。

世論に押され、いわれなき、罪を背負わされたと言ってよいでしょう。

領地を失った義周は諏訪家へのお預けの身となりました。高島城南の丸に囲われた義周への処遇は丁重かつ儀礼をつくしたものであったと伝えられています。

しかし、それでも配流地諏訪での暮らしは彼にとって辛いものだったでしょう。ここで、次々に肉親らの死を知ることになるのです。配流から3年後、悶々のうちに若い命を散らしたのです。21歳という若さでした。

幕府による検死の後、諏訪にある法華寺というお寺に埋葬されました。

 

彼は何を思いながら諏訪で暮らしたのでしょう。

養父を救えず、吉良家を守れず、家臣らを失い、彼の肉親らの命を奪った浪士らが持て囃される一方で、自らは民衆の嘲笑を浴びて生きる。

エリートである彼には死ぬよりもつらい3年間だったのではないでしょうか。

 

法華寺

諏訪大社上社本宮のすぐ隣に法華寺はあります。赤い山門が印象的です。

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創建は古く、平安時代とされています。その頃は天台宗の寺だったそうですが、鎌倉時代に蘭渓道隆によって中興開山され、臨済宗となっています。

別項にて詳しく書きますが、天正10年に織田信長が武田家を滅ぼした際に、信長がこの寺に滞在しています。

上社の宮寺に準ずる地位を持ち、大隅流の棟梁による本堂や県宝の本尊など多くの文化財があったが平成11年に放火にあい惜しくも焼失してしまいました。この話を観光ガイドの際にすると、「あぁ、くまえりにやられたんですか。」と言われますが、くまえり事件とは別の放火事件です。最近は、このやり取りがメンドクサイので放火にあった話はするの止めました。

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現在は新しい本堂が建っています。

っで、この新しい本堂の左側に目をやると、今日の目的の場所への案内があります。

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分かります?「吉良義周公の墓」とあります。

吉良義周の墓

案内に従い、寺の裏手へ進むと義周公の墓碑があります。

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義周公の地元・吉良町の方らが今でも供養に来られているそうです。

それにしても、名門吉良家の最後の当主の墓だというのに、寂しいものです。

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赤穂浪士の名声の陰で、幕府の都合で無実の罪を着せられ、若くして亡くなった公の無念は如何ほどのものだっただろうか。この墓石のみじめさに、私は悲哀を感じずにはいられません。

 

では、また。

 

※追記

法華寺に関する記事をもう一つ書きました。 

www.hesocha.com