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ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

【下諏訪宿】甲州道中と中山道が合流するいで湯と信仰の里

観光 温泉 歴史

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下社(春宮、秋宮)の周りには多くの旅館や浴場が存在します。この辺りは、かつて下諏訪宿と呼ばれていました。
甲州道中と中山道の交点として宿場町として栄え、現在でも、かつての本陣などの建物や古い外観の旅館などが町並みを形成しており、観光客に人気です。
今日はそんな下諏訪宿と、街道について書きます。

まずは下諏訪宿で交わる二つの街道について簡単に説明します。

甲州道中

五街道のひとつで、徳川家康が江戸と軍事要衝であった甲斐・甲府城を結んで定めた官道です。甲府を越え、信州・下諏訪で中山道と合流します。
戦国時代には、武田氏の兵站に欠かせない軍用道路として利用されていましたが、江戸の世になり、街道制が制定されると茶壺道中三度飛脚などの公用のほか、富士山や甲斐善光寺、信州の善光寺に詣でる多くの旅人が行きかう道となりました。

江戸日本橋から下諏訪まで 五十三里十一町(約209㎞)
内藤新宿から上諏訪までの宿数 45宿
(上り下りのみの宿もあったため、数え方には諸説あり)
甲州道中の完成は慶長9年(1604)頃だそうです。
当初甲州海道と言っていましたが、正徳6年(1716)甲州道中と改められました。
山の中を歩くのに海道と言われてもピンときませんもんね。

中山道(中仙道)

五街道のひとつで、江戸時代に江戸と京都を結んだ幹線道路です。多くの峠や険阻な山道があるものの、東海道ほど川越えがないため、川留めなどで足止めになることが少なく、参勤交代の大名行列や一般の旅人のほかに、後続女性の旅などにも利用されていました。(和宮降嫁など) 

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江戸日本橋から京都まで 六十九次百三十二里十町八間とされていますが、最後の草津から大津を経て京都まで二区間三里は東海道と重なるので、百二十九里十町八間(約508㎞)、板橋から守山宿まで67宿。
下諏訪は、江戸から五十五里七町(約217㎞)
京都へ 七十七里三町(約303㎞)
慶長7年に制定されています。当初は中仙道と書かれましたが、東山道中筋の道であることから正徳6年(1716)中山道と改めました。木曾を通るので木曾街道とも言われたそうです。

2つの街道が交わる宿場町 下諏訪宿

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上記の中山道と甲州道中という2つの大きな街道が、ここで合流します。また、2つの道の交点であると同時に、甲州道中の終点でもありました。

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この下諏訪宿は、古くは全国の武士の尊崇を受ける諏訪神社の総本社が鎮座する門前町として、また交通の要衝地として栄えました。
そして前述のとおり、江戸時代になり、五街道が整備されると中山道と甲州街道の交点として、甲州街道の終点の宿場町として栄えます。
また、下諏訪宿中山道で唯一の温泉地でした。中世より、この地は湯の町として知られており、多くの旅人が疲れを癒した温泉場でしたが、共に難所の和田峠と塩尻峠の間にあることもあり旅人にとって格好の休憩地となりました。このため非常に栄えた宿場となるのです。


門前町と旧宿場町を併せ持つ古い温泉町という条件が揃っていることから現在でも全国から多くのファンが訪れています。諏訪大社下社への参拝と、いで湯めぐりが今も昔も旅人の心と体を癒しているのです。

 

では、また。