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ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

日本の近代化を支えたお蚕様の慰霊塔

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明治~大正にかけての岡谷は製糸業で大変栄えました。最近は歴史の教科書から諏訪・岡谷の製糸業や精密業の話がカットされてしまっているそうですが、ある程度の年齢の方ならご存知のことだと思います。

今日はそんな岡谷と製糸に関する話です。

明治政府の蚕糸業奨励と岡谷

明治政府は富国強兵・殖産興業をスローガンに国力の増大に努めていました。そんな中、重要な輸出品である絹の生産力を高めようと蚕糸業が奨励され、富岡製糸場に代表されるような西洋式の器械製糸技術が導入されていきました。

諏訪地方の製糸家もすすんでこれを導入し、明治10年に445釜(繰糸器台数=1釜)となり、25年には800余釜、35年には17,000余釜に達し、驚異的な発展を遂げていきました。

大正期になると一層諏訪地方の製糸業は栄え、大正6年には36,000釜となり、明治末から、この10年で約2倍となり、蚕都岡谷、シルク岡谷とうたわれるようになりました。

日本の近代化を支えたお蚕様

明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出70%~40%を占めていたそうです。1900年頃には中国を抜いて世界一の生糸輸出国になっています。ここで稼いだ金によって、より近代化がすすめられていったわけです。

つまり、私たちの近代的な生活の礎は生糸によって、そして、その元となる蚕(カイコ)によって築かれたのです。そんなカイコたちを「お蚕様」と呼んでいます。

お蚕様の慰霊塔、「蚕霊供養塔」

岡谷市の照光寺というお寺に「蚕霊供養塔」という慰霊塔がある。その名のとおり、お蚕様の霊を慰めるためのものです。

蚕霊供養塔が建立されたのは昭和9年のことです。当時の日本は関東大震災からの復興道半ば、さらには昭和金融恐慌などの影響もあり、経済は弱体化していました。そんな時、さらに追い打ちで世界恐慌が発生し、大変苦しい状態でした。

岡谷も同様に、いや、同様以上に影響をうけました。それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出がアメリカ経済の悪化によって急激に落ち込み、危機的状況に陥ったのです。

製糸工場は休業、倒産するところが数多く、人々は職を失い路頭に迷うものも少なくありませんでした。

こうした折に、諏訪の製糸業関係者は、製糸業発展のために、日本の近代化のために犠牲になったお蚕様の霊を慰め、蚕糸業の発展を祈念しようと、蚕霊供養塔の建立を思い立ったのです。

蚕霊供養塔はお蚕様への感謝を表すと同時に、苦難に立ち向かおうという製糸業関係者らの決意を現したシンボルでもあるのです。

多くの人からの浄財によって建立

建立にかかる費用は発起人となった製糸業関係者らの出資のほか、寄付も募りました。その結果、数万人にも及ぶ人々からの浄財を得て建立の運びとなりました。

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照光寺境内に建立された供養塔は、棟梁は四賀村(現諏訪市四賀)の石田房茂が請け負いました。木造銅葺重層の塔で、正面には高野山金剛寺住職曽我部大僧正筆の額が懸っています。本尊は馬鳴菩薩で、仏師は東京の宮本広之です。

建立後、蚕霊供養塔奉賛会を結成し、昭和10年4月29日に第1回御開帳を行い、以後、毎年法要厳修の蚕糸祭を行っています。

終わりに

岡谷の蚕糸について記事にしようと、最近色々と調べていましたが、昭和初期と現代の情勢が良く似ていると思いました。この話は、よく言われることなので、改めて書くほどでもないのでしょうが、震災と、その後の世界的な不況の流れは、あまりにも似ています。

当時の人たちも、まさかその後の大戦は想像していなかったでしょうし、だからこその慰霊塔だったと思うのです。

供養塔の前に立つと、自力で危機を脱しようと、経済的な危機に立ち向かった先人らの思いが伝わってくるような気がしました。

 

では、また。