ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

和田嶺合戦での敵方・水戸天狗党の戦死者を弔った浪人塚

広告

f:id:hesocha:20151112113543j:plain

諏訪大社秋宮から和田峠へと向かう道の途中、少し脇にそれるとひっそりと塚があります。水戸藩の尊攘派の死者を弔ったもので浪人塚と呼ばれています。

幕末の動乱期にこの地で高島・松本藩と水戸浪士の間でおこった和田嶺合戦での浪士側の、つまりは諏訪にとっては敵側の戦死者の塚です。

今日はこの浪人塚に関してです。

和田嶺合戦 高島(諏訪)・松本VS水戸浪士

この浪人塚で弔われている尊攘派は藩主の徳川斉昭(なりあき)の藩政改革を機に登場した軽輩武士を中核とする急進派でした。武田耕雲斎(こううんさい)、藤田小四郎らを中心とする彼らは天狗党と呼ばれ、攘夷の延期を不満として筑波山で挙兵した者たちです。京都に登り斉昭の子、一橋慶喜(よしのぶ)に嘆願し、朝廷に訴え攘夷を実行させるのが目的で中山道を進み和田峠に向かってきたのです。

これに対し、幕命により高島藩・松本両藩はこれを樋橋(とよはし)で迎え撃つこととなった。高島藩は千野孫九郎以下約400人、松本藩は家老稲村元良(もとよし)以下350人が動員された。ここでの戦は午後2時頃から始まり、日暮れまで続きました。

高島・松本両藩、完全敗北

浪士勢は山の斜面を下ってくる者もおり、中には馬で下ってくる者もいた。高島・松本両藩は完全に虚を突かれる形となった。ここで水戸方の一隊はゲッタ沢をのぼり、集落の東側の陰に迂回して撃ち下し、さらに他の一隊は深沢に出て進路を絶ったため両藩は総崩れとなり、砥川に追い落とされ、川岸ににげる者、川を渡って松本を目指した者など様々。高島・松本の敗戦となった。

その後、浪士勢は街に下ってきて下諏訪宿に泊ったが、人々の混乱は一様ではなく、家財道具を穴に埋めて隠したり、諏訪大社に逃げ込んで寒さに震えて一晩を過ごした者もいたそうです。天狗党は翌日、伊那路を天竜川に沿って下って行きました。

この戦を「和田嶺合戦」「砥沢口合戦」「樋橋合戦」などと呼びます。この戦で命を落とした者は浪士勢14~15名。松本勢4名。高島勢6名であった。明治2年に高島藩は命を落とした浪士のために塚を造り、翌年、水戸に照会して戦死者の名を得て碑を建てて供養しました。

これが浪人塚と供養碑

f:id:hesocha:20151112114451j:plain

近くで見るとこんな感じ。供養碑の後ろにこんもりと山になっているのが浪人塚。

ここに戦死した水戸浪士らが眠っている。

f:id:hesocha:20151112114809j:plain

f:id:hesocha:20151112114821j:plain

この記念碑はもともと木製だったそうだが、長い年月で朽ちてしまったので、あらためて石碑にしたそうです。

f:id:hesocha:20151112115213j:plain

水戸市長からの献木がありました。和田嶺合戦150年忌記念に平成25年に頂いたものだそうです。

この木でしょうか?

f:id:hesocha:20151112115352j:plain

争ったという歴史が、次の時代の交流につながるというのは、何とも不思議な感じですが、日本って、こういう話多いですよね。

こういう敵方にも敬意を払う文化って良いなぁと思ったところで、話をおわりにします。

では。また。