ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

【洩矢神社】もう一つの国譲り

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東方ファンの皆様、お待たせいたしました。って、いないか、そんな読者。まぁ、良い。今日は東方ファンの間で聖地化しているという洩矢(もりや)神社についてです。

昨日の投稿でも書きましたが、諏訪明神は初めから諏訪におられたのではありません。実は、彼が来る前の諏訪は別の土着の神が治める国でした。その土着神を祀るのが今日紹介する洩矢神社です。 

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外からよそ者がやってくれば当然争いになるわけですが、その顛末がチョッと面白い。

それでは洩矢神社を通して、古代諏訪を舞台に行われた諏訪明神と洩矢神による、もう一つの国譲りについて書いてみたいと思います。

 建御名方神、諏訪へ

古事記では力くらべに敗れて諏訪へ逃げて来たことになっている建御名方神ですが、諏訪に伝わる諏訪明神絵詞によれば朝廷の命で諏訪にやってきたとされています。

いずれにせよ建御名方神は外部から諏訪へやって来た、侵略者であったと言えます。

 その頃、諏訪の地には洩矢族の人々が住んでいました。洩矢族はやって来た建御名方神らを諏訪湖から流れ出る天竜川で迎え撃ちます。洩矢神は鉄の輪を、建御名方神は藤の枝を持って天竜川を挟んで戦ったと伝えられています。(このあたりについては別の機会に詳しく書きたいと思います。)

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洩矢神社は岡谷市の橋原に鎮座していますが、この洩矢神社付近にこの戦いでの洩矢側の本陣があったと言われています。

さて、戦いの結果は建御名方神が勝利におわります。ここに諏訪の統治は洩矢神から建御名方神に移ります。この瞬間、建御名方神は諏訪の神様になったと言えるかもしれません。

では負けた側の洩矢神。彼(もしかしたら彼女?)はどうなってしまったのか。

諏訪明神と洩矢神は和解し、協力する

敗れた側は滅ぼされ、歴史の表舞台から姿を消すのが世の常ですが、この戦では違いました。諏訪明神は敗れた洩矢神を許し、そればかりか、領地運営のパートナーとして重用しました。洩矢神もこれに応え、諏訪明神を助け諏訪の地の開拓にあたられたと言われています。

この洩矢神の子孫が神長官(じんちょうがん)の守矢氏と伝えれれています。諏訪大社上社には神長官・禰宜(ねぎ)太夫・権祝(ごんのほうり)・擬祝(こりのほうり)・副祝(そえのほうり)の五官の祝(ほうり)という神職がおり、それらを束ね祭祀を司った筆頭神官が神長官です。 守矢家については資料館がありますので、興味のある方はそちらものぞいてみてください。

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物語ではわかりやすい勝敗が描かれていますが、幕末の江戸城無血開城の話のように、実のところは泥沼の総力戦を回避し、共に協力した方が利口だという判断が働き、上手い落としどころとして共同経営の道を選んだのではないかと個人的には思っています。

ともかく、諏訪明神と洩矢神のそれぞれの子孫が大祝・諏訪家、神長官・守矢家として諏訪地方を共同で治めて行くことになりました。

出雲の国譲り同様、諏訪の国譲りも争いはあったものの、最終的には和解し協力して国造りを進めていったのです。

 古戦場跡ともいえる洩矢神社の今

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控えめな本殿です。祭神は当然のこと洩矢神ですが、諏訪明神も合祀されています。諏訪の国譲りを象徴する神社と言えるかもしれません。

本殿の右側に絵馬が並んでいますが、最近は東方人気で絵馬の数が昔より格段に多くなり、え~っと、その、なんというか特徴的な絵馬が増えています。

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こんな感じです。

古代の争いの場が、こうして交流の場になっているというのは、何とも不思議な感じがしますが、最終的には共生による平和を選んだ二神の意に沿っているとも言えなくもないのかなぁ… 

 

などと無理やり良い話で終えようとしてみたのですが、どうやら失敗したようです。

傷口を広げないうちに退散します。

 

では、また。