ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

軽登山で自然を楽しむも良し、歴史ロマンを楽しむも良しの桑原城址

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軽登山で自然に触れ合い季節の移ろいを楽しみながら、地域の歴史を感じられる。そんな一粒で二度美味しいスポットを紹介します。

戦国時代の代表的な山城で、諏訪総領家最後の舞台でもある桑原城は、徒歩20分ほどで山頂まで登り切れるお手軽登山コースでもあります。 

武田信玄の諏訪攻めと桑原城

桑原城とは

桑原城は現在の桑原区と普門寺区との境にあった山城で、築城時期は不明です。別名を鷹戸屋城、水晶城などともいうそうです。

中世における諏訪総領家の本拠であった上原城(茅野市)の支城として要害を誇りました。

諏訪家と武田家

天文4年(1535年)には諏訪総領家の諏訪頼満と甲斐国守護の武田信虎が両国の境となる境川で諏訪神社の宝鈴(さなぎのすず)を鳴らして和睦。

武田信虎の娘禰々が頼満の孫で後に諏訪総領家を継いだ諏訪頼重に輿入れし、諏訪・武田両家は同盟を結ぶに至ります。その後も連携を強化し、佐久の海野氏を攻めるなどして勢力拡大に努めました。

諏訪総領家最後の舞台、桑原城

良好だった両家の関係が壊れたのは、総領家を継いだ諏訪頼重が天文10年(1541年)に関東管領上杉憲政と単独で講和を結んだことによります。翌年、天文11年(1542年)には父信虎を追放した武田晴信(のちの信玄)が諏訪に攻め入ってきました。

上社神長の記録「守屋頼真書留」によれば、その頃諏訪では災害や飢饉、対小笠原氏や佐久方面での戦が続き、民衆が疲れ果てていたため、高遠頼継らと組んだ武田勢とでは勢力の差は歴然としていました。しかし、頼重は奇襲策を嫌い、正々堂々と迎え撃つ構えでした。

とは言え、疲弊している諏訪氏はみるみる劣勢となります。そのため、頼重は居城である上原城に火をかけて、要害でもあるここ桑原城へ移り立て籠もります。

しかし、そこで事件が起こります。戦闘に備えるために検分しようと頼重は「つるね」(足長神社へ続く尾根か?)を下りますが、これを見た家臣が、頼重が城を捨てたと思い逃げてしまいます。

このため20名ほどで夜を明かし、翌日、甲州勢の使者を受け入れて、城を明け渡すことになりました。その後、頼重は甲府へ連行され、東光寺で自刃しました。

このように桑原城は諏訪総領家最後の舞台となりました。

桑原城址へ向かう登山道

桑原城の城郭は既に残ってはいませんが、城跡は小さな公園?になっており、そこへ続く道はチョッとした登山が楽しめます。

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霧ヶ峰に向かう途中に割と大きな看板があるので分かりやすいと思います。

そこには桑原城の歴史が観光協会さんによって説明された案内もあります。

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上記の説明はほとんどこの案内の内容です。

「東山歴史の遊歩道」とあります。他のコースもあるということでしょうか。こういうコースを探しては歩いて回るというのも楽しいものです。

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遊歩道というくらいですので、登山道は整備されています。

途中までは車でも登って行けそうな砂利道です。傾斜も緩やかですので登山の経験のない方でも安心して登れます。

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5分ほど登っていくと、少し開けた場所にたどり着きます。

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砂利道はここまでです。ここから先は林の中を行く狭い山道です。グッと登山っぽくなります。

写真の中央に階段状になった登山道が見えます。ここを進んでいきます。

途中、見覚えのある案内を発見しました。ウォーキングトレイルコース順路②とありあます。登山口には①がありましたから、道は間違えてはいないようです。もっとも、ここまでの道のりで迷うような場所はありませんが…

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この案内は道が二股にわかれているポイントにありました。私の登ってきた桑原口の他に普門寺口という登山道の入り口もあるようです。

案内に沿って、山頂(城跡)を目指します。

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山の中も階段や手すりが整備されており、子供でも安全に登って行けそうです。雨の降った翌日でしたが、ぬかるみなどもなく歩きやすい登山道でした。

山城の名残

歩きやすい登山道ではありましたが、そうは言っても桑原城は山城。アチコチに要害の名残がありました。

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空濠です。歩きやすいようになってはいますが、急なアップダウンでした。ここを甲冑を着てのぼるのは大変だろうと思います。

山道を抜けると少し広く、明るいスペースがあらわれます。

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何やら看板があります。

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看板には東曲輪(ひがしくるわ)とあります。ウィキペディアによるとこういうものだそうです。

曲輪とは、軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間と定義でき、15世紀後半に曲輪を連ねる構造が発達し始めたとされ、例えば千葉県横芝光町の篠本城は主従の関係が明確でない空間で構成されており、また青森県八戸市の根城は一族横並びの構造と考えられ、当初の連郭式城郭では曲輪間に主従の関係はなかったといわれている[2]。その後戦国時代以降の城郭では、複数の曲輪を意図的に配置し、一郭を主とし二郭以降を従とする構成が一般的となった。江戸時代には中心的な曲輪に、本丸(ほんまる)・二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)などの名前が付く。

曲輪 - Wikipedia

なるほど、要するに、戦のときはここで敵を迎え撃つわけです。

城に立てこもる諏訪武士になったつもりで、ぐるりと、もう一つ看板を見つけました。

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小高い丘があって、その上にポツンと。

これを見つけたときは看板が遠すぎて何と書いてあるのか確認できなかったのですが、下山後、写真で確認してみて驚きました。 

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文字がかすれていますが、首塚と読めます。

なんだかとても物騒な字面です。

ん~ 城の中に首塚? そんなことあるのだろうか?

配置的にも土塁か何かのように思えるのですが…

ちょっと調べてみたくなりました。これについてはそのうち追記するかもしれません。

東曲輪をさらに進むと、山頂に到着します。

桑原城址の山頂

城郭など当時のものは一切ありません。

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この碑がそこに城があったことを示すのみです。

あ、もう一つ城があったことを示すものがありました。

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史跡の案内と略図です。

山頂にある構造物と言えば、あとはこの祠くらいでしょうか。しっかりと御柱も建てられています。

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低山とはいえ、山城が作られるような山の山頂ですから大変眺めが良いです。

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左が茅野市、右が諏訪市です。正面の山の先は伊那地方です。諏訪と伊那を結ぶ杖突峠も確認でき、ここが軍事的にも重要な場所だったことが実感できます。

山頂に登る直前にも空濠がありました。

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上から見るとこんな感じになります。

結構深い谷のようになります。

 

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この対面にわたると諏訪湖もよく見えました。

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ここからなら花火もよく見えそうです。夜中にのぼる勇気があればですが…

諏訪湖周辺が一望できます。これなら領地はもちろん、松本や伊那方面の様子も確認できそうです。居城の上原城との距離を考えても城を建てるには絶好の立地だったのでしょう。

こうして実際に登ってみると「あぁ、なるほど。」と思うことも多いものです。

 アクセス

国道20号線、四賀交差点を霧ヶ峰方向(県道424号)へ曲がり、そのまま道なりに進むと、登山道入り口が右手に見えてきます。

 

観光施設や有名な景勝地も良いですが、こういう地味目の史跡巡りも楽しいものですよ。では、また。