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ヘソで茶をわかす

日本のへそ、諏訪湖畔に住む小市民の日々の記録

現代の価値観と縄文時代の価値観の優劣について

雑記 歴史

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こういうのは本来はスルーするのが正しいのだと思うのだが、あえて書いてみる。

昨日投稿の蛙狩りに関してのコメントについてだ。

端的に言ってしまえば「TPOわきまえろよ」と言いたいだけだったのだが、蛙狩り神事への言及が多くあったので、それらに対して、私の考えを述べたい。

 あなたの言う野蛮とは?

いまどき生贄はないのではないかとか、時代に合わせて変えるべきとか、別の手段を考えるべきとの意見が多く寄せられました。

このあたりの主張に関しては概ね理解いたしますし、10年前ならば私も同じことを言ったと思うのです。しかし、かつて私もそうだったように、この主張の裏には「野蛮だ」という当該神事に対するある種の誤解があるのだと思うのです。

ブックマークのコメントを読んでいくと、そのあたりを包み隠さずに吐き捨てていく輩もいますので、読者の心理を知るうえで非常に便利です。そういった博学薄学なブックマーカーに言わせると、我々は野蛮な土人らしいですよ。

しかし、そこまで言われれば、何処が野蛮なのか説明してもらいたいものです。はたして、何をもって野蛮とさげすむのか?

彼らの言う「野蛮」、その価値基準は何処にあるものなのか?

諏訪信仰の土壌は縄文文化

これは以前に蛙狩り神事についてまとめた際に書いていますが、諏訪大社の神事は自然との調和を大切にする自然信仰がもとになっています。 

www.hesocha.com

そして、それは縄文時代から続くものなのです。

こんな古い時代から人が住み続け、同一の文化を守り、育んできた場所は世界中を探しても、そうそうあるものではありません。

諏訪大社の神事とは、そういう遥か昔から続く、神道が形作られる前から続く諏訪の独特の文化の象徴なのです。

それ故に、外からは異様に見えるのだと思います。しかし、他の神社と違っているという話であって、間違っているという話ではないはずです。一般的な日本人から見れば、イスラム教は得体の知れない宗教かもしれない。でも、日本人の感覚と違うからそれが間違っているという話にはならないように。

神事は議論の聖域ではない

神事だからと議論に聖域を作るなという趣旨のコメントも数多くいただきましたが、まぁ、記事を読まずにとりあえず批判したのだと思います。

わたしはちゃんと書いています。民主的な合意形成によって神事の形が変わるのなら、それも良いと。

先に書きましたが、昨日の記事で議論なんぞするつもりは少しもありませんでした。TPOをわきまえろ。それが昨日の私の主張。

ですが、丁度良いので、このことについても書いておきます。

批判する人たちは神社=保守的と思い込んでいるのではないでしょうか? 

とりあえず保守的なものをしがらみとか言って叩いておけば良いという、悪しき左派メディアのやり方に毒されているように感じます。

これも以前に書いたものです。

www.hesocha.com

 肉食がタブーだった時代にあって、信仰と生活を両立させるために知恵を絞った先人らがいました。諏訪大社を原理主義的なものだと叩きたいのでしょうが、それとは対極にあるのが諏訪大社だと思います。

諏訪大社は非常に柔軟で、過去にも神事の形を時代に合わせて変更してきています。大切な文化を守りつつも、時代の変化に対応してきたのです。

今度の件も、問題があるというのなら何かの変更はあるのだろうと思います。しかしそれは、浅はかな批判によってではなく、あくまでも諏訪人の意志によって行われるべきものです。

諏訪の歴史も文化も諏訪大社と密接に結びついている

政(まつりごと)と言うくらいで、かつては祭事と政治は密接に結びついていたわけです。そして、そんな時代から栄えていた街ですから、諏訪大社の影響が各所にみられるわけです。

諏訪大社の神事は諏訪文化の象徴だと前述しましたが、こういうのって、田舎に行けば大なり小なりあると思うのです。かつて「公民館」なるものが無い時代、地域の決め事は神社に集まって行われました。地域の結びつきは神社で作られたし、地域ごとの文化もそこで生まれていたはずです。

そういうかつての日本の姿が残っている神社だと言っても良いかもしれません。みんなで守ってきた、育んできたものだから大事にしているのです。

現代って、そんなに誇れほど文化的かい?

そもそも、この批判の原因は現代的な価値観を、神事の原型があった縄文の価値観よりも上位にあると思っているから発生することなのだと思う。

昔は野蛮だった。それを人類は血を流しながら改善してきて、今の文明がある。

そういう発想なのだと思う。

だが、これは真実なのか?

縄文の住まいにはエアコンはありません。テレビも、洗濯機も、冷蔵庫も、何にもありません。着ているものも今よりずっと粗末でしょうし、食べ物だって碌なもんじゃないですよ。以前、縄文時代の主食だったドングリを食べてみましたけど、とても美味しいなんて言えるものではありませんでした。

衛生的でもなかったでしょう。だから、平均寿命も短かったし、人口も今よりずっと少なかった。

でも、縄文時代には大きな争いはなかった

縄文人は争わず、それぞれが平和に暮らしていた。他から奪わず、分け合い、助け合って暮らしていた。

さらに諏訪の縄文時代についていえば、200~500年ほどで移住することが多かった縄文時代にあって、諏訪に定住し続けられたのは、諏訪の自然が豊かだったことと、それを意識的に守ってきた先人の知恵があったからだと考えている。そして、その名残が蛙狩りだと思っている。

自然が豊かだといっても、獣を獲りつくしてしまえば食べていけなくなる。カエルのような何処にでもいるありふれた小動物の命でさえ神饌としての価値をもてるのは、先人らがあらゆる命を大切にし、みだりに殺さずにいた証拠だと思う。無価値のものを神にささげたりはしないだろう。

こうして、諏訪では自然との共生が太古から受け継がれてきたのだとおもう。

 

対して、弥生以降の価値観はどうか? 現代はどうか?

弥生時代に入り、大陸から様々なものが入ってきた。それらは暮らしを良くして行ったが、同時に争いを持ち込んだ。

奪い合い、殺し合いうことを覚えた人間の価値観と、そんな事とはかかわりのない平和的な生き方をしていた人間の価値観と、はたしてどちらの方が文化的なのだろうか?

人の価値観に優劣をつけること自体間違っているのかもしれないが、少なくとも、他者の価値観を理解しようともせず、無理解のままに、自分の価値観でのみ図り、「土人」だの「野蛮」だの言うことが、文化的だとは到底思えない。

 

始めに書いたように、私も10年前ならば、「時代に則した形にするべきだ」と言っていただろう。しかし、地元の歴史や文化に興味を持ち、調べていけばいくほど、動物愛護などという薄っぺらい観点では論じ切れないものだと思うようになってきた。

 

「時代に則していない」という言葉。これこそ議論の聖域で、思考停止状態ではないだろうか?

これまでのやり方を守って、維持して何が悪いのか?

改革しなくちゃいけない病から脱するべきだ。

守るべきは守る。伝えるべきものは伝える。それでいいはずだ。

 

繰り返すが、どのような主張があっても良いと思うし、民主的な合意形成があるのであれば、神事の形が変わるのは良いことだと思う。変化・柔軟さも諏訪大社の伝統である。

だから、大いに議論すれば良いと思う。マナーとルールを守って。

 

そのうえで今日はあえて言う。

遥かな昔から、先人らが育んできたものを、「時代に則さない」と現代的な感覚のみで図るのは、私は傲慢な気がする。

 

  では、また。